「農」とグローバリズム・ローカリズム
スタッフさん、ウーファーさん、援農さんと剪定作業風景
「 グローバリズムの終焉 ~経済学的文明から地理学的文明へ~ 」 という思想史研究家の関曠野(せきひろの)さんと安曇野市穂高で有機農業をする藤沢雄一郎さんが共著の本を、読み返しました。地元の友人、津村さんが、長野県有機農業研究会という団体の事務局をやっており、この会が主催で、「ベーシックインカムの講演会で関さんがくるよ」と、チラシをくれたのがきっかけです。諸事情あり、どうしてもその日は参加できなかったのですが、手元にあった本を3年ぶりに再読です。ちなみに共著の藤沢さんは、安曇野の有機農業就農者が慕う、われらの親分です。
何回かに分けて、この本のエッセンスを紹介して行く中で、安曇野の農業者である私自身が、これから進む道を探求していく機会にできればと思っています。難しい言葉も多いですが、きっと皆さんの暮らしに役立つことも多いと思いますので、どうかお付き合いください。
いつ頃からか、あちこちで「農業」と並んで「農」という言葉をよく耳にするようになった。「農業」が産業の一分野を指す言葉であるのに対し、「農」は天と地をつなぐ人間の多種多様な営みを意味している。だから昨今都会で広まる市民農園も農の一例である。歴史においてはこうした言葉遣いの些細な変化がじつは時代の大きな変動の予兆であることが多い。そして農という言葉が潜在的にはらむ豊かな意味は、近代文明を輸送文明として捉え直すなら、ひときわはっきりしてくる。
文明の歴史は火の使用、農業による定住、冶金術の出現といった生産の在り方で区分されるのが普通である。その一方で、交通と輸送の方式の変革は軽視されてきた。だが車輪や帆の発明、馬の家畜化といったことは文明の歴史に決定的な影響を及ぼしてきた。そして近代文明は何よりも大量の商品の迅速な輸送によって特徴づけられる文明である。「経済学」はこの商品の大量輸送を前提として成立している学問である。
この輸送の文明は1492年のコロンブスの新世界アメリカへの航海とともに始まり、これ以後近代世界は西ヨーロッパが世界の海洋を支配し海外の富を収奪する貿易によって覇権を謳歌する世界になった。19世紀英国の産業革命は工場による安価な商品の大量生産を可能にしたが、その商品を輸送する鉄道と蒸気船なしにはこの革命も無意味だったろう。そして続く20世紀はアメリカが代表する自動車と飛行機の世紀になった。
また文明の歴史をエネルギーを使用する方式によって区分するならば、18世紀までは植物の光合成の働きを利用した農業の時代、19世紀は石炭を使った英国の産業革命の時代、20世紀は石油を原動力にしたアメリカ的な大量消費社会の時代だった。そして今日も採掘された原油の半分は交通と輸送に使われている。石油という魔法の資源はコロンブスの航海に始まる輸送の文明を完成させたのである。そしてこの点で、国際エネルギー機関(IEA)が2010年の定例報告で世界はすでに2006年にピーク·オイルを迎えたと言明したことは文明の転機を告げるものである。今後は原油の生産は油田の枯渇で逓減していく。タールサンドなどからの採油や天然ガスは豊富で安価な原油に代わりうるものではない。
そして世界貿易における商品輸送の90 %は今でも海運によって担われている。石油価格が1バレル200ドルにまで高騰すれば海運業はまったく採算がとれなくなるという研究報告がすでに出ている。コロンブスの航海は日本に開国を迫るペリーの黒船に一直線につながっていた。この近代世界を生み出した世界貿易の終焉は、明日明後日のことではないにせよ、もはや時間の問題なのである。
世界貿易の時代が終焉すれば、グローバリズムからの脱却と国民経済の再生が各国の課題となる。各国の経済は自給を原則とし、貿易はそれを二次的に補完するものにすぎなくなるだろう。そして「経済」は地域の限られた資源を賢明に利用する知恵を意味することになるだろう。それだけではない。輸送の文明の終焉は各国の社会構造も変える。社会は食料からエネルギーまで可能なかぎり自給自足した地域コミュニティによって構成されることになる。国家はムラの連合体になる。こうして文明の基調は「輸送」から「居住」に転換し、経済学ではなく地理学がその原理になる。大地を生活の場にすること、そのための活動を意味している。
そうした活動を代表してきたのが、天と地をつなぐ農という人間の営みだった。地理学的な文明においては、農に由来する季節感が日本文化の隅々にまで染みこんでいるように、農が再び人間のあらゆる活動の規範や尺度になるだろう。これは産業革命以前の世界に戻るということではない。19世紀以来の工業化は農業そのものを工業化したことはなかった。トラクターなど機械の使用や農薬の濫用など工業化の皮相な影響はあったかもしれないが、昔も今も農は気象や地形など人知を超えた自然の力に左右され土地への愛情と配慮なしには続けられない営みである。
その意味で、農は万古不易の文明の定礎にほかならない。それゆえに「農業」から「農」への人々の言葉遣いの変化は、工業社会が成長の限界にぶつかる中で、文明の原理が輸送から居住に転換しつつあることの徴(しるし)である。そして農とは特定の労働のことではない。それは農的活動をとおして世界における人間の地位を理解しようとする、心身一体の作業–「野の文化」 Agriculture なのである。
(グローバリズムの終焉 まえがきより 関曠野著 農文協刊)
始めに言葉の定義をおさえておきます。「グローバリズム」というときに2つの異なる定義があると思います。特にカタカナ表記(つまり日本国内で)の場合、混同されやすいようです。一つは「国家や地域の垣根をこえて、世界を一つの共同体として考え、一人ひとりが地球市民として生きていこうとする考え方」。もう一つが、「国家・地域を超えて、世界中を一つのマーケットとしてとらえ、利益追求の為ならば、どこへでも自国(自企業)の商品を流通させ、どこからでも原材料を調達してくること」。
資本主義経済の世界的な進行に合わせて、経済面から端を発したこの流れは、政治・社会・文化・人材と様々な切り口でグローバリズムが賛美され「グローバル化」が現実のものとなってきました。私たちの暮らしが、世界の遠い国から運ばれてくるたくさんの石油やウランなどのエネルギー資源や、大豆・小麦・海産物・畜産物と畜産飼料などの食糧を大量に輸入することで成立していることは、自分が子どもの時から聞かされていました。また家や工場を建てる材木、鉄の原料鉄鉱石やレアメタルなど鉱物資源も大半を輸入し、日本は発展(?)してきたのです。世界中の国と自由に貿易することで暮らしはもっと豊かになるという時代に生まれ、大人になってきたのが私たちの世代なのだと思います。
ところがグローバリズムと自由貿易による「物の輸送」を支えてきた石油エネルギーはいつまでも続きません。代替エネルギーがいくつかあったとしても、そうやって地球資源を食べつくしていかざるを得ない「物の輸送経済」が経済活性の象徴と奨励されるような社会でいいのかと、提言されている学者・思想家・研究者がどんどん出てきています。
(2018年3月号ニュースレターより 松村暁生 著)
続きは、下記記事をぜひお読みくださいね。
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